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2016年度教学部任用試験(仏法入門) テキストと演習問題集を準備しました
2016-11-18 Fri 17:18
2016年11月20日に行われる教学部任用試験(仏法入門)の学習用テキストと演習問題集をアップしました。
過去問題等も踏まえていますが、できる限り学習範囲の全体を網羅する練習問題として作成していますので、理解の深化と学習の一助に使っていただけると思います。
受験対象者の方々にご活用いただければ幸いです。

↓こちらのページから閲覧、印刷ができます。

http://www.prosecute.jp/2016ninyou.htm

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創業20周年
2016-04-10 Sun 23:12
本日4月10日で創業より20周年を迎えました。

多くの皆様に支えられて志を同じくする方々と協働しながら20年間の歩みを進めることができました。お世話になりました全ての皆様に心より感謝申し上げます。
また今日からは次の10年をめざして鋭意精進していきたいと思います。
今まで以上にご指導ご鞭撻をいただけますようお願い申し上げます。
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地方創生 政治家の意識改革と地方の人材育成が急務
2015-02-20 Fri 12:04
国会では平成26年度補正予算に続き、平成27年度予算の審議が行われ「地方創生」が声高に叫ばれています。
「地方創生元年」ともいえる本年。
各地域の主体的な動きがどこまで加速させることができるのか。
大変に重要な局面を迎えています。

だからこそあえて苦言を呈したい。
国会でどんなに真剣に議論され、素晴らしい予算編成を行なっても、それがどのように執行されるのか。その結果が重要です。

しかし今回審議の予算の多くは執行される先が事前に内定し、形だけの公告が行われているものが半数以上。
補正予算に至っては可決当日にはすべての予算配分先は決まっていました。

政治の常識からいえば当然と言えば当然のことなのでしょう。
施策実行のスピードをアップするという大義もあります。

1月後半、メディア報道された審議中の補正予算の概要を見た私は、この予算を活用するにはどうすればよいのか問い合わせをしました。
やはりこうした時には政府与党に聞くのが一番です。
ただ自民党は問い合わせ窓口がはっきりせず、もうひとつの与党・公明党に議員経験者を介してお聞きしました。
聞いた党関係者は、国会事務局の責任者です。
その方いわく「予算執行先は既に決まっている」とのこと。

まあそれはそうかもなぁと思っていましたので、では今後はどの時期から、どのような手順を踏んで進めたらよいのかと聞いたところ、

「各地方自治体(市区町村)から県へ問い合わせて、県から国へというルートが確立している」
「審議内容の事前情報もそのルートで通達されている」
「その正式な手順を踏んで問い合わせてほしい」

何とも杓子定規な回答でした。

それができていないからこそ地方創生が必要なのではないか?
あきれるやらなさけないやら...。
もちろん事務方と議員とは意識が違うかもしれませんし、お聞きしたその方個人の資質の問題もあるかも知れませんが、大衆の党を標榜する公明党ですらこの体です。

そうした地方自治体から能動的な動きが出てこないから地方における国民生活が行き詰っている。 地方自治体によっては予算編成の内訳を想定して半年、一年以上前から準備しているところもありますが、多くの地方自治体では担当部署の1~2名の職員の意識に任されているのが実態です。

そうした都市部以外の地方自治体のスタッフ育成、具体的な補助事業の進め方を指導しない限り、意識のない職員が担当する地域の住民には地方創生予算の恩恵を与かることはできません。
富める者は更に富んでいき、知らないものは損をする構造が拡大しています。

私はNPO法人の代表として岡山県で産直野菜の直売所を経営し、群馬県の自治体と地域再生の活動を進めるなど、日常的に地方の現場で仕事をしています。
その経験から、なんとか助成金を原資とした地域活性化の補助事業を当該地域でも行なえないかと様々な方策を模索しています。

補助事業の多くは、その地域の地方自治体を含めた協議会等の設立が必要なことが多い。
要は一部の住民や団体に補助金が使われないように、その地域の多数を代表する団体が関わっていることを担保する。
そのため実質的に市役所や町役場の職員や首長の意識と行動力が欠落していると何も前に進まない現実があります。

それを各自治体の自己責任とか、正規のルートで問い合わせろとか言っていたら、今までと何も変わらない。

各地方自治体の職員の意識向上の具体策を!
民間と自治体が協働できる具体的な枠組みの提示を!
民間主導で補助事業が推進できる予算配分を!
事前情報のより広い公開と広報活動を!
具体的な補助事業推進のためのセミナー等の開催を!

官民が一体となってよりよき社会の創出のために協働することが重要であると感じる今日この頃です。

【関連リンク】
農林水産省 補助事業参加者の公募
まち・ひと・しごと創生本部
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集団的自衛権の行使容認 私達の認識は果たして適切なのか
2014-12-12 Fri 23:17
年の瀬12月の衆議院選挙。投開票日が目前に迫っている。
2年前に続いて2回連続の12月選挙になった。
歳末の多忙な時期で、かつ野党は候補者調整に奔走したためか実のある政策論争はほとんど見受けられない。事前の予想では自民党の圧勝、共産党の議席倍増との報道が目を引く。
そんな情勢でも様々なメディアでは、政策のポイントをいくつかに絞って各政党間の違いを図表にしたりして解説する報道がトレンドのようだ。
有権者にわかりやすく伝えようという努力なのだと思うが、解説するメディアの担当者や番組であれば出演者が正しく理解せず誤った認識で報道しているものも少なからずある。
その中で特に違和感を感じる「集団的自衛権」について少し糺しておきたい。

NHKでさえも報道する「集団的自衛権行使容認の道を開いた」

先日のNHKのニュース番組でも、各党の外交安全保障政策を比較する前提の説明として「政府与党は海外で武力行使を可能にする閣議決定を発表した」という表現を使っていた。
また民主党、共産党をはじめ各野党は文章としては「専守防衛と平和主義を堅持する」「海外で戦争する国を作らない」等々の文言を掲げるにとどめているが、街頭演説等では「海外での武力行使に道をひらいた閣議決定を撤回させる」など「閣議決定=海外での武力行使容認」の構図を声高に叫んでいる。
共産党の議席倍増の予測という風は、そうした武力行使容認と思われる政府対応への国民の反発ともいえるかも知れない。

確かに安倍首相の持っていた意図は、自衛隊を海外で活動させることにあったのだろう。
首相は政府見解を発表した記者会見でも、邦人輸送中のアメリカ艦隊との共同行動やシーレーン防衛についても言及している。
しかし安倍首相が言っているような事例も含めて、海外で部隊展開ができる政府見解になっているのだろうか。

もう既に忘れてしまった人が大半なのだろうと思うが、思い出してほしい。
5月下旬から7月1日にかけての緊迫した政治情勢を。
あの数十日間で集団的自衛権についての定義がどのように変わり、決定されたかを。

ひとつめのポイント 集団的自衛権行使の新3要件

今回の集団的自衛権の閣議決定を2~3回繰り返して読めば多くの人は理解できるはずだ。
【リンク】→閣議決定全文 国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について

「これでは日本における集団的自衛権の行使は国際常識から見れば個別的自衛権とイコールである」「集団的自衛権は絵に描いた餅も同然である」というのが事実である。
今回の閣議決定の全文はさほど長いものではないので実際によく読んでほしい。
閣議決定をまとめる過程で、自民公明の二党は様々な協議を重ねて複数の歯止めをかけている。
何点かポイントはあるが、今日はその中で一つに絞って紹介していきたい。

閣議決定の中核になるのは言うまでもなく集団的自衛権行使の新3要件である。
それは「3.憲法第9条の下で許容される自衛の措置」の中で示された

1)我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において
2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに
3)必要最小限度の実力を行使する


ことは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った-との文面である。
(※番号は便宜的にふりました。)

この文面からだろう、多くの人達は「集団的自衛権行使への道を開いた」と思っているようだ。この個所だけ見ればたしかにそのようにも読めるかもしれない。

誤解のないように一言触れておくが、この文章の中だけでも様々な歯止めがかけられている。
・我が国の存立が脅かされる事態とは
・国民の生命、自由及び幸福追求の権利が覆されるとは
・「根底」からとはどのような事態か
・「明白な危険」とは
・他の適当な手段とは
・その手段がないという事態の判断は
・必要最小限度とは
・実力とは
・その行使の方法は
等々、行使を認定するためには個々の要件、その時点での情勢を審議することになる。この点が法的、国際法上で見ても大きな歯止めになるという見解は複数の有識者から示されている。
今回はこの点は割愛して、次に指摘する点について論を進めることにする。

閣議決定を「絵にかいた餅」にした 戦闘行為を行なっている現場の条件

文章というものは全体をひとつのものとして見なければならない。
この前段である「2.国際社会の平和と安定への一層の貢献」の中で重要な前提条件を課している。それは

(ア)我が国の支援対象となる他国軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では、支援活動は実施しない。
(イ)仮に、状況変化により、我が国が支援活動を実施している場所が「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合には、直ちにそこで実施している支援活動を休止又は中断する。


という個所である。
つまり日本の自衛隊は戦闘地域での活動はできないのだ。また活動を行なっている場所が戦闘状態になった時点で休止又は中断することが決定しているのである。
この条件のもとでどう考えれば「海外で武力行使ができる道を開いた」という認識が出てくるのか甚だ疑問である。

実在しない 「集団的自衛権行使の新3要件」を満たす「非戦闘地域での活動」

さらに言えば「非戦闘地域での活動」に限定した個所から見れば、新3要件に当てはまる事態は我が国に対する直接的攻撃の場合以外には起こり得ないことになる。

言うまでもなく、直接的攻撃に対しては日本国として全力を挙げて自衛防衛を行なう。これは個別的自衛権の行使と呼ばれている。この点については議論の余地はないはずだ。

新3要件の冒頭の文章に続く「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し」とは、戦闘状態を意味する。戦闘状態の地域では日本の自衛隊は活動ができない。
つまり、「集団的自衛権行使の新3要件」を満たす「非戦闘地域での支援活動」は現実にはありえないのである。
日本の近隣海域でアメリカ軍が他国の攻撃を受けていても、日本の自衛隊は出動できない。なぜならばアメリカ軍が攻撃を受けた時点で戦闘地域になるからである。
そうしたことから結論を言えば、日本の自衛隊が武力行使ができるのは、日本の国土及び国民が直接攻撃を受けた場合に限定されるのである。
今回の集団的自衛権行使の新3要件の設定は、事実上、日本における集団的自衛権を個別的自衛権の行使の範疇に押し止めたのであるとの憲法学者等のコメントはこうした現実に立脚している。

正しく評価されるべき 公明党の果たした役割

今回の閣議決定をまとめ上げた背景には公明党の努力があったことは明白であろう。公明党が「平和憲法に背く議論は行なわない」等の理由をつけて2党間協議の場を蹴っていたならば、自民党主導での閣議決定の作成が行われ、おそらく海外における自衛隊の武力行使の道が開かれたであろうことは想像に難くない。事実他の政党であれば議論のテーブルにつかないという選択をしたであろう。
しかし公明党は敢えて火中の栗を拾う覚悟を決めて2党間協議に真正面から取り組んだことで、日本の安全保障は平和憲法遵守の道を外れないで済んだのである。

改憲反対と声高に叫ぶだけでは平和を守ることはできない。
現実の立法の現場で、行政の現場で直面する戦争の危機と向き合いながら、打つべき歯止めを打っていく。これが政治の使命であると私は思う。
平和憲法を現実に護っているのは公明党であり、今回は相当な危機的状況であったなかで公明党だけがこの危機に立ち向かったことで乗り越えることができたのである。
社民党でもなく、共産党でもなく、公明党がやり抜いたのである。
この事実を私たち国民は正確に認識すべきである。

事実、閣議決定発表後も安倍首相は「ホルムズ海峡での機雷除去に自衛隊が派遣できる」との個人的見解を述べている。しかし閣議決定を基準に判断すれば、ホルムズ海峡に機雷が敷設された時点で国際法的には「戦争状態」に入ったことになる。そこに自衛隊を派遣することは閣議決定として禁じているのである。
この点は佐藤優氏をはじめ多くの有識者が指摘しているとおりである。
果たして今回の閣議決定は安倍首相が当初想定していたモノとは変質してしまっていることを、首相自身がわかっていないのかなと思ってしまう。

メディア報道では、自民党と公明党は政府与党とひとくくりにされることが多いが、明らかに違う思想を持つ政党なのである。

手続き上の歯止め「事前の国会承認」を機能させる投票行動を

それ以外にも、情勢の認定における歯止めや手続き上の歯止めもかけられているのが今回の閣議決定の重厚さの所以でもある。
そのひとつが「事前の国会承認」である。

閣議決定の中では「原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することとする」と明記されている。
上記のように明確に記述されている基準に基づけば、良識の府である国会において承認される海外派兵などありえない。たとえ安倍首相が「派遣できる」と主張しても国会承認がなければ派遣はできないのである。

来春には関連する法令が改正されることになり、おそらく事前の国会承認の具体的な文言が審議される。
全会一致というのは現実的ではないため、「両院国会議員の3分の2以上の承認」等が国会承認の基準として審議されるだろう。

ただわずかの懸念をもつとすれば、最後の歯止めである国会が機能不全に陥っている状態であろうか。仮に自民党単独で両院の3分の2以上の議席を持っていた場合で、安倍首相のような考えで党議拘束がかけられたら危険な状態が生まれることになるかもしれない。その意味では自民党単独で3分の2の議席をとらせないことは、国会正常化の重要な要素になるだろう。

目前に迫った衆議院議員選挙は良識の府たる国会と日本の将来を守る私達国民一人ひとりの戦いである。名実共に確固たる理念と信念を持つ、本当に働く国会議員を私達の投票行動で選んでいきたい。
そのためには、中途半端なメディア報道に惑わされることなく、何が真実かを見極めていきたい。間違った思想や認識は断じて放置してはならない。
そのように強く思うのである。

【関連情報】
閣議決定全文 国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について
安倍首相、憲法解釈変更について会見「批判を恐れずに行動に移した」(HuffPost)
9条下で他国防衛認めず(公明新聞2014年7月15日付)
【総選挙2014】「自民党より右」は評価されるか(ポリタス)
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2014年11月教学部任用試験 テキストと演習問題集を準備しました
2014-11-21 Fri 12:06
今月(2014年11月23日)に行われる教学部任用試験の学習用テキストと演習問題集をアップしました。
受験対象者の方々にご活用いただければ幸いです。

↓こちらのページから閲覧、印刷等ができます。

http://www.prosecute.jp/2014ninyou.htm
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国民感覚はどれも「違法」 うちわ論議
2014-10-23 Thu 23:20
第二次安倍内閣を象徴してきた女性閣僚のうち2人が相次いで辞任した。
小渕優子氏の政治資金疑惑は調査結果を待つが、松島みどり氏のうちわ状の政策ビラ配布については違法との判断が妥当であろう。
公職選挙法に規定されておりかつ各地の選挙管理委員会が違法の事例として紹介している中にうちわが明記されていることからも、司法の判断を仰ぐべき事案である。

しかし、である。
なんだかしっくりこないなぁと思う人も多くいると私は感じる。
要するに松島氏本人もしくはスタッフが少し勉強していて、うちわ状のビラの「骨」や「持ち手」をつけなければ「合法」だったという点である。
問題の本質がそれだけであれば「次からは公選法をよく勉強して政治活動しようね」という話でもある。

しかし、それだけの話であろうか。
今回ネットや巷で話題になっているのは「うちわ状」の円形厚紙&親指を入れる穴があいている政策ビラの存在そのものである。
その形状構造から見て「うちわ」として使ってもらう意図は明白である。
「うちわ」として使ってもらうつもりがないなら、なぜ厚紙で円形なのか、なぜ穴があいているのか、しかも通常のビラよりも費用をかけて作っているのか、全く説明ができない。
だれが見ても考えても、「うちわ」として使ってもらうことで、捨てられないようにしばらく手元に置いてもらうようにしたいという意図がはっきりしている。

そうであればこれも立派な「うちわ」である。
法律的な解釈で「ビラ」と考えることができるからOKです、というのは国民感情としては「アウト」と感じる人が多いのではないだろうか。
法的な言い逃れができる言動を一般的には「脱法行為」という。
国民の範を示すべき国会議員が「法の抜け穴」を堂々と国会の場で晒すのは、果たして望ましい姿なのであろうか。

これは松島みどり議員をはじめとする与党議員も、追及をしている野党議員も同様である。今回の糾弾の急先鋒になっている蓮舫議員と民主党に至っては、「うちわ状の円形ビラ」を制作して配布している事実があることは様々な報道等によっても明白になっている。
たとえ法律的な解釈でセーフになるような行為であっても、その法律の「立法の精神」を順守して望ましい法律運用の模範を示すのが立法府を守る国会議員の使命であると私は思う。

こんな法律解釈で時間を使うよりも、行なうべき法案審議が山積している。
日本の政治は緊迫状態が続いている。
消費税10%への増税を行なうのか行なわないのか。
集団的自衛権をどのように具体的に運用するのかしないのか。
社会的マイノリティに対する施策をどうするのか。
等々...。

本国会(第187回)の提出議案の多くはまだ審議の端緒にもついていない。
【本国会の議案一覧↓】
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/menu.htm
一刻の猶予も許されない課題がいくつも法案として提出されている。
この現実を認識していない議員が多すぎるのではないか。
別の面で見れば、一日国会を開催するだけでどれだけの血税が使われているかも考えてほしい。いま行なわれている質疑応答の中身が一億円の税金投入にふさわしいかどうかを。
いま何をすべきか、国会議員たる者ならば、よくよく考えて行動してほしい。
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教学部初級試験&青年教学3級試験 練習問題をアップします
2014-08-27 Wed 09:30
2014年9月28日(日)に実施される教学試験の学習のためのページを開設しました。
学習深化のために活用いただければ幸いです。

http://www.prosecute.jp/2014syokyu.htm

想定問題は順次アップします。
とりあえず第1弾として、御書講義拝読御書、座談会拝読御書についてアップしました。

追記
全範囲のアップが終わりました。
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教学部任用試験 演習問題を用意しました
2013-11-06 Wed 23:50
今月(2013年11月)に行われる教学部任用試験の演習問題集をアップしました。
受験対象者の方々にご活用いただければ幸いです。

↓こちらのページから閲覧、印刷等ができます。

http://www.prosecute.jp/2013ninyou.htm
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第100回 桂冠塾 『野火』
2013-09-12 Thu 12:36
097.jpg8月24日に8月度の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回で100回目の節目を迎えました。
各回に参加いただきました皆様に感謝申し上げます。

68回目の終戦記念日を迎えた今月は戦争をテーマにした作品を取り上げます。今回取り上げたのは大岡昇平作『野火(のび)』です。
作品は昭和19年11月末にレイテ島に上陸した日本陸軍の田村一等兵の独白の形で構成されています。

太平洋戦争の激戦地

レイテ島とその周辺海域は、太平洋戦争最大の激戦地のひとつです。
1944年10月20日ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ軍がレイテ湾に上陸。
レイテ島がフィリピン戦線の主戦場として攻防が繰り広げられます。
物量に勝るアメリカ軍は日本軍の物資と兵員の補給路を完全に断ち、孤立した8万人余りの日本軍兵士がほぼ全滅するという惨劇の結末を迎えました。レイテ島からの生還率は3%ともいわれています。
大岡昇平氏は自らの従軍体験を元に、この作品を書き上げています。

精神の極限

主人公田村一等兵は以前から罹患していた肺病が悪化し野戦病院に行かされますが、受入れできない病院から拒否され、部隊からも放逐されてレイテ島の山野を彷徨します。
日本軍がパロンポンに救出に来るという軍命令を伝え聞き、多くの日本兵が分断された道なき道をパロンポンに向かいます。
人が目の前で次々と死に、腐敗した死体が散乱する極限状態の中で、田村は自らの生への執着と絶望の狭間を行き来し、精神的にも異常な状態に陥っていきます。
自らが生き延びるために現地人の女を殺傷...そしていつしか田村の目は屍体の臀肉を追っていました。
同僚が食料として「猿」を狩猟して食する場面に至って、田村は自身の精神的均衡が崩壊することを悟ります。

日本兵による人肉食

この作品が注目された理由として日本兵による人肉食が描かれている点にあります。
作品の中では、田村一等兵が懺悔もしくは生への執着が消えた虚脱の思いから、一旦は全ての生あるモノを口にすることを拒絶するシーンが描かれます。その直前、田村は飢餓と狂気によって屍体の臀肉を食する欲望に屈しかけます。それを押し止めていたモノは理性でも神への信仰でもなく、見られているかもしれない「人の目」。
それでも森に散在している臀部の肉が削ぎとられた屍体は、ある事実を田村に語りかけてきます。
そして田村は、死ぬ直前に「食べてもいいよ」と言い残して死んだ日本兵の屍体を、人目の付かない場所に移動します。
しかし食べることができない。「食べていいよ」という言葉が禁圧として働く。
おれは本当に食べるのか。
蠅がたかって屍体が見えなくなると安堵した。
屍体の上で山蛭(ひる)が太っていく。
田村は屍体の血で太った山蛭を押しつぶして血をすすった。

田村は思います。
人の屍体を食べることと、山蛭と介して血をすすることに違いがあるのかないのか。違いなどないではないか。
田村は屍体の肉を食しようと右手に剣を握ります。
その瞬間、その右手を田村の左手が押し止めたのです。

「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむることなかれ」

田村が聞いたのは自身の心の声なのか、それとも天か神の声だったのでしょうか。

その後田村は、一切の草木すら口にせず、死んでいくだろう運命に身を任せようとします。そんなときに以前行動を共にしていた日本兵永松に抱き起こされます。
田村は、永松の水筒の水を飲み、差し出された「猿」の干し肉を食べた。
決意していた禁欲はどこかに消え去っていた。

そして後日、田村は知ることになります。
その「猿」とは人間のことであるという事実を。
さらに永松が「猿」を狩猟する場面に遭遇。周囲には切り捨てられていた足首や食に適さない人の部位が。
そして自分達二人の食料にするために目の前で同僚の殺人を行い手首と足首を打ち落とした永松に、田村は銃口を向けます。
田村の記憶は、ここで途切れます。

田村はアメリカ軍の俘虜病院に収容され、敗戦後の昭和21年3月に復員。5年後に東京郊外の精神病院に入り、今こうしてこの手記を書いている...。
そんな結末に至ります。

食べてよい生命と食べてはいけない生命があるのか

その当時を実際に見ていない私達は、人肉食の事実があったのかどうかを論じることは避けたほうがよいのかもしれませんが、現在残っている様々な手記や文献から推察すると、太平洋戦争末期において日本兵による人肉食が行われたことは事実を考えるのが妥当なのだろうと思われます。
ただ、その事実(と思われる)の是非を論じることが今回の主眼ではありません。

人肉を食べてまで生き延びることが是なのか。
もし人肉は食べていけないとすれば、人肉の血で太った山蛭から絞って血を飲むことは許されるのか。
さらには、人間が生きていくために多くの生ある動物を食べていいのか。
もっと言えば、動物がだめで植物ならいいのか。

現実は何も食べなければ、人は生きていけない。
なにがしかの形で、他の生命を食して自分自身の生命を長らえているのである。
食べていい生命と、食べてはいけない生命という区分はあるのか。
生命にそうした差異や価値の違いがあるのだろうか。

生きていくということの根本命題を真正面から顔面に投げつけている。
それがこの作品の本質ではないかと感じます。

キリストの声を聞いた田村

作品の中で大岡昇平氏は、田村一等兵に人肉食を思いとどまらせた要因はキリスト教の信仰であると思わせる文脈を綴っています。
大岡昇平氏がキリスト教徒であることは知られた事実であり、作品中でも個人の快楽や生への執着に対して「デ・プロフンディス(われ深き淵より汝を呼べり)」の聖書の一節で警句を鳴らすシーンを描き、最終章においては戦場の赴いたことも含めて、様々な体験は全て神が彼に与えた試練であると田村が気づくというストーリーと読めます。
それゆえに最終行が「神に栄えあれ」の一文で締めくくられているのかもしれません。

それが大岡昇平氏の意図であるとすれば、田村一等兵は人肉食という地獄の淵から覗いていた悪魔の誘惑に勝ったことになります。
大岡氏を含めて、極限の地獄絵の渦中にいた者は、そう考えるしか逃げ道がないのかもしれない。
では人肉を食べてしまった者はどうなるのでしょう。
キリスト教の説く救いのない深き淵の地獄に堕ちてしまったのでしょうか。

キリスト教の説く人間像の限界

ある意味、キリスト教の説く教義はシンプルです。
神(地球を創った創造神)が自らの姿に似せて作ったのが人間であり、人間に地上の万物を支配する使命を与えたとされています。一方、人間以外の生物や自然といった万物は人間の支配物であるので人間が生きていくなかで利用することが許されていますので、人間以外の生物は殺しても構わない。
そうした考え方が根底にあるので、一応は人間が人間を殺傷することは罪となります。
しかし、そこにはその人間が神の意志に背いていない限りという大前提条件がついています。
もし神の意志に背いた人間がいれば、それは認める価値はない。
そうした論理に至るのは、ある意味で必然とも言えるでしょう。

それゆえキリスト教徒でない者を殺生することが聖戦の名のもとで延々と行なわれてきましたし、邪教徒は一番最初に地獄に落ちる(辺獄を漂う)とされてきました。
作品の背景となる日本軍は、当然のことながらキリスト教の教義を根底にした軍隊でも国家でもありません。したがってキリスト教観では日本が敗戦するのは当然として、その中でキリスト教的信仰を貫いた田村一等兵は聖者賢人とも位置付けられるかもしれません。
さらに言えば、もし仮に田村が人を殺して人肉を食べていたとしても、異教徒である日本兵の人肉であれば問題なしとされる可能性があります。

確かに田村を精神的極限状態から救ったのはキリスト教の信仰だったと思いますが、キリスト教を信仰しない者や現代を生きる私達にとって普遍的な人間の考えとはなりえません。

殺す心を殺す

このテーマを考えるとき、思い起こす興味深い釈尊にまつわる仏教の説話があります。ある人が釈尊に次のように質問しました。

「生命は尊厳であるというが、人間は誰しも他の生き物を犠牲にして食べないと生きていけない。いかなる生き物は殺してよくて、いかなる生き物は殺してはいけないのか?」

まさに『野火』が問いかけるテーマでもありますが、それに対する釈尊の答えは次のようであったと言います。

「それは殺す心を殺せばよいのだ」

この答えを詭弁だとか論点をすり替えていると言う人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。何のための食なのか、その食を得た自分自身がいかように生きようと思っているのかという自分自身の内面こそが、その殺生の是非を決めるということではないかと思います。

かつてこの説話について論じた平和思想家の池田大作SGI会長は次のように記しています。

暴力や殺生などの錯綜した事象は、おびただしい位相を持ち、どの線が良く、どの線が悪いなどという一律な線引きなど不可能である。
ゆえに「殺す心を殺す」こと、外面的な理非曲直よりも、まず内面の制覇こそが、第一義的な重要事なのだ。
その「自己規律」の心が確立されていれば、いかなる迷いや逡巡も乗り越えて、最善の選択、決断を過たぬはずである--。
釈尊の真意も、ここにあるはずである。
(2002年1月26日・第27回SGIの日記念提言より抜粋)



限界の状況に対して過たない判断をいかにして下すか。
それは自分自身の中に自己規律の心を確立することによって成し遂げられる。
“この場合はAですよ”“このケースはBなんですよ”というようなマニュアル的な解決方法は、現実の人生には何の役にもたたない。
私達は経験的にわかっているはずですが、ややもするとマニュアル的な答えを欲しがってしまう。
その安易な生命の傾向性を乗り越えることが、現代を生きる私達の課題ではないかと思います。

『野火』は、現代を生きる私達に生きていくための自己規律は確立しているかと疑問を投げかけているのかもしれません。

【桂冠塾の当日の開催内容等はこちら↓】
http://www.prosecute.jp/keikan/100.htm
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明日 桂冠塾(読書会)100回目の節目です
2013-08-23 Fri 11:23
今月も月例の桂冠塾を開催します。

■8月度読書会【桂冠塾】※第100回
テーマ:『野火』(大岡昇平)
日時:8月24日(土)14時~17時
会場:勤労福祉会館 和室(小)
最寄駅:西武池袋線大泉学園駅 徒歩3分
開催の概要はこちら↓
http://www.prosecute.jp/keikan/100.htm

桂冠塾は明日の開催で100回目の節目を迎えます。

「子供たちが本を読まなくなった」と言われ始めてどのくらい経つでしょうか。「子供は大人の鑑」とも言います。果たして本を読まないのは子供だけなのでしょうか?
「よりよく生きたい」と願う気持ちは、生命の叫びとして存在すると私は思いたい。迷路に入り込みかけているかもしれない私たちは、その解決の糸口をどこに求めたらいいのか。そのひとつに時代を超えて読み継がれてきた書籍があると私は思います。


このように呼びかけて、古今東西の名著に触れながら互いに研鑽しあう場として2005年4月に始めた桂冠塾の取組み。毎月1回、1冊の本を取り上げて参加者の方々と共に読み、語り合って一つの区切りを迎えました。特に記念イベントを行なうわけではありませんが(^_^;)これからも地道に続けていきたいと思います。
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
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私達がとるべき投票行動とは-参院選投開票の前日に思う-
2013-07-20 Sat 16:01
明日21日(日)は参議院議員選挙の投開票日ですね。
既に期日前投票を行なった方もおられると思います。当日20時までの投票締切り後、即日開票で翌朝までに改選121議席の行方が確定する見込みです。
年を追うごとにどのような政治家を議会に送り出すのかが重要になってきていると痛感します。特に国政選挙においては、個々の政策が当然重要であることに加えて、今後の国政の方向性をどのように定めていくのか、国の舵取りを誰に託すのかという命題が問われます。
私達有権者はどのような基準で政治家を選ぶべきか。
今日は私の個人的な考えを少し述べてみたいと思います。

■多様化する生活

日本の国会では年間100~120本程度の法案が成立しています。そのすべてが自分自身の考えと一致するというのはなかなかありえず、私も毎年数本は「これはどうなのかなぁ」と感じる法案が成立しています。現実には7~8割が納得できれば御の字というのが一般的な感覚なのかもしれません。
ただしこの違和感がある数本に自分自身の生活に影響する問題が含まれていたりする時に人は判断を迷う、ということも多いかもしれません。
時代を追う毎に社会は多様化し、個々人の意識は集約しにくい時代へとなっています。それは良い意味では、一人ひとりが自立する時代を迎えているということでもあると思います。望ましい傾向である一方で、常に利害が相反する人達が存在するということであり、民意を過半数以上に集約しにくいのが現実です。政治や行政的な施策を執行する立場から見れば、いかに頑張っても常に評価が相半ばする時代とも言えると思います。

■「政策」中心で決定することの危うさ

このように個々人の生き方が多様化する時代においては、個々の政策を投票行動の基準とすることは極めて危ういということにもなるでしょう。実際に「この政策はA候補に賛成」「こっちの分野はB政党に考えが合う」と決められない状況になってしまいます。
マスメディアや多くの識者の方々を含めて、実績や政策の公約を比較して投票先を決めることを勧めていますが、そうした比較検討は、実は結果的として、選挙のたび毎に右に左に民意が揺れ動く不安定な政治状況をつくってしまっているともいえるのではないかと思うのです。
情報を収集して比較検討するという行動は、今の無党派層と呼ばれる有権者の最大多数の人々の行動基準でもあると思いますが、その行きつく先が必然的に毎回の選挙で政権が変わる結果に繋がっていると私は感じています。
今後もそんなことをしていたら、政治と政治家の劣化は加速度的に進んでしまう。
結果として被害をこうむるのは国民である私たち自身である。
そのような危機感を感じてなりません。

■比較検討する有権者の裏をかく政治家達

こうした危険を回避するために有効な方策として一般的には2つの方法があると考えられています。
①マニフェスト等で公表された公約と、今までの実績を比較して本当に実行できるのか検証する
②各政党、候補者の経歴等を調べてどのような政治信条を持っているか検証する

この2つの視点で検証するだけでもそれぞれの政治家の真意に迫ることができます。しかし被選挙民である政治家達にとって不都合な真実は往々にして伏せられているものですし、耳障りの良い言葉でオブラートに包む政治家が多くなっています。
結果として責任ある政治行動をとる政治家は激減し、その場しのぎの票目当ての発言が日常化する。有権者が良かれと思って比較検証という行動をとったがゆえに、真実は更に見えにくくなるという悪循環を起こしています。

耳触りのよい主張。
今回であれば原発問題はその典型でしょう。「原発即時ゼロ」と言っている政党が4~5政党ありますが、現実に安全に全停止しようとするならば、1~2年のソフトランディングをする必要があることは自明の理。今日か明日、完全に停止するなどできるはずもない。原子炉に残っている使用途中の核燃料や行き場のない使用済み燃料、炉心の冷却水の処分、中間処理施設にたまっている使用済み燃料の処分、さらに原子炉を完全停止させ安定冷却するまでに発生するかもしれない災害への対策等も含めて対処すべき項目はいくつもある。それらの対策を講じるためには公明党などの政党が主張している「原発ゼロ社会」へのロードマップと同様な時間軸になるのは必然です。その違いは、実際に実務を遂行する覚悟の上の発言か、そうでない発言かの違いとも見えます。
しかし、おそらく各党各候補者ともわかっているのに「即時」と言った方が“聞こえ”がいいし、他党と差別化ができるから「即時」という。マスメディアはわかっているのかいないのか、大きな違いはないのに政党名と政策をマトリックスにまとめて「○」とか「△」とかつける。そんなからくりは、少しでも原発ゼロのためにどうすればよいか学習した人間であれば誰にでもわかる。
こんな見え透いた、聞く人に思い込ませる“未必の嘘”を天下の政党が恥ずかしげもなく発言するから多くの国民は誰にも期待しなくなり、「投票にいかない」という無作為の行動が蔓延してしまう。
4年前の民主党による政権交代とその後の失政は、この構図そのものです。

■政策や政治信条の奥にある思想哲学

今私達が政治家に求めるべきものは何か。
掲げられた政策の是非だけではなく、そうした政策が出される根本にどのような思想哲学があるのか。そしてその思想哲学が空理空論では意味がない。本当に私達の日常生活に有為に貢献する思想哲学であるかどうか。
その一点が確固たるものであれば、どのような社会状況になったとしても有機的に対応することができる。想定外の突発事故があったとしても、判断を誤ることなく最善の政治判断と決断を実行することができる。
そのような政治家に政治を託すのが最善の道であると思うのです。

■一人ひとりの幸福の確立こそ社会が目指す姿

大上段に「社会の繁栄だ」「世界の平和だ」と叫んでも実際には何も変わらないことが多々ある。
逆説的に聞こえたとしても、やはりまず個々人の幸福の確立があってこそ国家も世界全体も豊かで幸せな社会を実現することができる。その点に異論を言いたてる人はいないのではないかと思います。
その意味では、幸せになるために社会体制を変える必要があるとか、政権を交代させればよい時代が来るなどという考えは、全くの虚構であると断言しておきたい。

政治はその国家や団体に属する全ての民衆の幸福に寄与するためにこそある。
だからこそ、政治には幸福を確立するための理論と哲学が必須なのだと訴えたい。
そしてその思想哲学は一人ひとりの生命をどこまでも尊重し、一個の生命の持つ限りない可能性を信じて現実生活に実証を現わすものであるべきである。
私はそのように思うのです。

■生命尊厳の思想

生命と宇宙のリズムを根源的に解明し、幸福になるための実践を具体的に展開してきたのが東洋思想が持つ英知であるとするのであれば、その生命哲学を実践する一人ひとりが社会のあらゆる分野で生命哲学を根本として、一人の人間として具体的な行動をとっていくことが今の世に生を受けた者の使命であるとも言えると思います。
政治の分野においても、今こそ生命尊厳の思想を持った政治家が求められているのではないでしょうか。これから日本は憲法改正や国防、東アジアの安定化、さらに国際貢献の在り方が議論される時期を迎えていきます。少子高齢化の進行は既定路線となり、社会福祉の財源をどのように考えていくべきかなど、日本は国家運営の岐路に立っています。このような重要な局面にこそ、生命尊厳の哲学を有する政治家がかじ取りをしていくべきである。
そのように私は感じています。

そうした意味においても今回の参議院選挙は重要な意味を持つと思います。
自分自身の思いをしっかりとみつめながら継続して語りあっていきたいと思う今日この頃です。
論点が前後したりまとまりのない文章になってしまいました((+_+))
申し訳ないです(^_^;)
皆さんはどのように感じられますか?
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安倍政権/成長戦略を正式発表 個々の戦略に思う(農業編)
2013-06-06 Thu 12:16
今月5日、安倍晋三首相は、日本の長期的成長を達成するための成長戦略を発表した。日本再生のための「3本目の矢」と位置付けた重要な戦略である。

その内容は多岐にわたり、様々な戦略の分析、構築がなされたものと推察される。日本を必ず再生させるのだという挑戦的意欲を大きく評価したいと思う。
それと共に、目的達成のために重要となってくる個々の政策についての評価については別物である。特に気になった点について私見を述べておきたい。

発表の中で安倍首相は「民間の創造的な活動を鼓舞し、国境を超えたあらゆるイノベーションを日本の中で起こす」と述べ、「国家戦略特区」「国民総所得150万円増」などの言葉が並んだ。
そしてとくに重視されていたのが、「民間活力の爆発」のキーワードである。
具体的な産業事業として、医薬品のネット販売、医療、交通インフラと並んで、民間の重要産業の一つとして農業の取り組みが明示されている。

農業についての政府の認識として「変革が遅れる農業」と位置づけられていることは明白だ。その当然の帰結として「国際競争力」をつけることが成功の要因とされている。

しかし果たして、そうなのだろうか。
私は、農業分野の事業展開を推進してきた立場の一人として異論を唱えたい。

いま、日本の農林漁業は大きな転換点を迎えている。
地方に住む住民の高齢化による限界集落の維持問題、第一次産業の後継者問題、雇用の急激な減少、少子化問題...。こうした様々な要因が相互に絡み合い、社会そのものの綻びが地方村落から大きくなりつつあると言われている。
さらにそれらの要因の奥底には、有史以来変遷を続けてきた人間の生活スタイルの流動性があるのだろう。

人間は同じ場所で、同じ生活文化を半永久的に維持発展し続けるという習性にはない。
その時代時代において、住む場所も、生活のスタイルも、食の確保方法も、大きく変化し続けてきた。そのことによって地球上の覇者としての地位を確保したとも言えるかもしれない。

個人の所得をはじめとする経済格差は、住民の生活を直撃しており、都市生活者との文化的生活水準には大きな格差となって現れ、日本社会全体のゆがみとなっている。

国民の多くが都市部に住む日本人にとって、農林漁業を共有問題とする意識がほとんどないのが現実だ。
山村の現実を我が問題として解決方法を模索し、苦悩しているのは、結局は山村地域に住む人たちだけである。

「それでいいじゃないか」という声も、聞く。
長年、山村再生に取り組んできた諸団体のメンバーですら、閉鎖的な体質を払拭しようともしない。山村地域の人たちとの協働を訴えるが、企業・都市側には自分たちの縁故だけでやっていて、大きく広げようとしないのが、現在の山村再生事業の実態である。
その意味では、限られた人達だけの特権化、既得権を守るような閉鎖的領域となりはじめている。儲け話の『山村再生ビジネス』はその典型である。
日本の将来にとって、極めて、危険な状況に追い込まれている。

こうした危機感を訴えてから約10年の年月が経過した。
近年「里山」再生が重要な課題としてクローズアップされている。
折しも経済再生を訴える安倍政権が「国際競争力をつけることによって農業を再生する」と訴えている。
今の日本の農業政策は、集落営農(農業経営の大規模化)と6次産業化の2本柱によって国際競争力をつけるという方向に突き進もうとしている。

しかしその方向性は、誤っていないのだろうか?
敢えて問いたい。
農業に国際競争力の概念は必要なのだろうか。
そもそも農業とは、地球規模で差別化を競う産業なのだろうか。

それぞれの地域には、その地域特有の強さがある。
他の地域での事例や理論を参考にしつつも、地域の差異を活かす生活を構築できる。
そのために重要な視点は、従来にない発想、異種の経験を、先入観を排除して活かす取り組みが重要になる。そして今、その地域が持っている潜在力、「地域力」とも呼べるものを生活にダイレクトに有効活用することが求められている。
そこに、これからの地域再生のポイントがある。
農業は、産業としての一側面だけで取り組んでも、よい結果には到達しない。
私は、そのように思うのである。

現実の話として、都市部と比べると、山村地域の物価は安い。
特に、家賃等をはじめとする住生活関連、そして農漁業産物を中心とした食生活に関わるコストは、農漁山村地域に圧倒的な優位性がある。平たく言えば断然「住みやすい」のである。
雇用確保や収益を確保できる事業展開ができれば、少ない収入であっても経済的にも充分に豊かな生活を送ることができる。
現実には環境整備も必要だ。それは収益事業及び雇用の確保(生活費の確保)、住居の確保、教育・文化的生活の確保である。
その根本的要素は「人」の問題である。

更に国際競争となれば、ポストハーベストの課題、フードマイレージの視点からの悪影響なども懸念される。
地元に根付いていない農産物の地球的拡散による種の混合の問題も、どのような影響があるのか未知数である。
大きな問題として認識されていないが、F1種を使い続けることへの警鐘も鳴らされている。

農業を取り巻く課題は、農業だけにとどまらない。
自然環境の回復、保水力をはじめとした自然災害への対応力、野生動物や小生物との共生など、どれも重要な課題と深くリンクしている。

農業経営の大規模化についての疑念は、以前から何度も提起してきた。
そもそも大規模化すれば根本的な改善になるのか。
大企業にならなければ中小零細企業はつぶれてしまうか?と置き替えて考えてみれば誰にもわかることだ。大規模化するかどうかは、真の対策ではないのだ。
加えて、日本の中で相当な大規模化を行ったとしても、アメリカ大陸で行なっている大規模農業は桁違いにスケールが大きい。いくら日本国政府あげて大規模化を推進しても、国際的に見れば大した規模にはならないのだ。
そんなことは少し調べれば、誰にでもわかる事実だ。
しかし、農水省は相も変わらず、大規模化に突き進んでいる。
誰もとめることができないのが、日本の農業政策の実態なのだ。

いま求められている喫緊の課題は何か。
農業従事者と消費者、それそれの意識改革であると訴えたい。
批判もあると思うが、あえていずれが重要かと言えば、重視すべきは消費者の意識改革であると主張する。
食の安全に関する諸課題を我が事として受け止めて問題解決に取り組む決意があるのか。
その決意があれば、地産地消などの消費行動に出るのは必然の結果とも言えないだろうか。
そうした消費市場が日本人の生活の中で熟成されることで、はじめて持続可能な農業経営が成り立つ。
その視点を明確にすれば、たとえば休耕地の有効活用も、生産者の生活支援の側面と共に、消費者と生産者の溝を埋める方向に進める道が見えてくる。
それが遠回りのように見えて、最も堅実な王道であると私は思う。

私達は今年の秋をめどに、新たな活動を広げることを模索している。
奥山から始まり、里山、人里、都市部へと繋がり、里海までの一気通貫したフィールドでの取り組みである。
従来から生活を行なってきた先人達の智恵と哲学に学び、2世代、3世代先の子孫に受け継いでいける日本を創る。
それが私達が目指す農業と里山再生の取り組みである。
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第97回桂冠塾 『職業としての政治』マックス・ウェーバー
2013-05-31 Fri 17:35
097.jpg5月18日(土)に5月度の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回のテーマ本はマックスウェーバー著『職業としての政治』です。

多くの方が学生時代に一度は耳にした社会学者の一人がマックス・ヴェーバーではないかと思います。従前は経済学の一部のように扱われていた学問分野を、独立した社会学としての立場を確立した世界的な社会学者といってよいと思います。
マックス・ヴェーバーの代表作として『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』があることからもわかるように、ヴェーバーの社会的考察の視点は、近代文明の発展の軌跡を人間の信仰観と合理性追求の関係性から解明しようとした側面があります。

そうした視点の展開の中で行なわれた講演として「職業としての学問」「職業としての政治」を位置づけることができると思います。

本書は1919年1月、ミュンヘンの自由学生同盟の学生達のために行なった公開講演の記録です。
時代は第1次世界大戦にドイツが敗戦した直後。愛国者でもあったヴェーバーは敗戦によって個人的な衝撃も受けていましたが、それにもまして心を痛めていたのは、この敗戦を「神の審判」のごとく受取り、自虐的な敗者の負い目を感じつつ、いつか訪れるであろう「至福千年」の理想に心酔しようとしている一部の知識人達の言動であったと言われています。
しかも、そうした知識人の多くがヴェーバーの親しい先輩、友人、教え子達であったため、彼らの考えを糺して現在の社会状況の本質を語ろうという意図があったと推察することができます。
当時のドイツの知識人が思っていた思想は次のようなものだったといいます。

”敗戦を喫したドイツ国民の我々は理想を実現する民であり、それを滅ぼした敵国は悪の枢軸であり世界は悪に染まっている。だから我々は必ず神の力によって世界を改変して千年王国を築くことができる。”



戦争と敗戦の本質は、果たしてそのようなものだったのでしょうか。
ヴェーバーは、政治の本質的属性が権力であり、国家相互の間であれ国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力が政治であると定義して自説を展開します。
当時の政治の現状を分析しつつ、講演の後半では政治と個人的倫理についての考察へとテーマが推移していきます。
文脈に沿ってみていきたいと思います。

■政治とは、政治家とは何か

冒頭から政治に関する様々な概念に対してのウェーバーの私論が次々と展開されていきます。
まず政治についてのウェーバーの定義が述べられます。

政治とは、国家の指導またはその指導に影響を与えようとする行為である。
国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体である。すべての国家は暴力の上に基礎づけられている。
政治とは、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である。



そして政治を行なう者は必ず権力を求める。その理由として
①別の目的を実現するための手段とするため
②権力自体がもたらす優越感を満喫するため
という2点を指摘しています。
政治家の清き思いが、権力の魔性によって悪しき方向へ変質することは必然であるともとれる指摘です。1点目は個々の目的を精査して対処することが求められますが、2点目についてはいかようにしてでも克服するしかありませんが、権力の誘惑に溺れる政治家がいかに多いかは多くの庶民が実際に目の当たりにしているとおりです。

次に、国家と人間との関係を論じます。
政治がその影響力を行使する国家とは、暴力行使に支えられた、人間の人間に対する支配関係であり、その支配関係は正当であるとし、この支配関係の正当性の根拠として
第一「伝統的支配」
第二「カリスマ的支配」
第三「合法的支配」
の3点が挙げられています。

ウェーバーはその中でも「カリスマ的支配」について論及していきます。
指導者個人に対する信仰ゆえに服従する形態を「カリスマ的支配」と呼び、その形態として
①呪術者と預言者
②選挙武候、一味の首領、傭兵隊長、民衆政治家(デマゴーグ)と政党指導者
があると指摘しています。
近代以降における政治家の選出は選挙によって行われるわけですが、選挙のたび毎に政治家の虚言に右往左往させられている有権者の姿は、ウェーバーの指摘するカリスマ的支配そのものとも思えます。

そして政治家は、自己の支配権を主張し支配関係を継続させるために外的な手段(補助手段)を用いる点を指摘します。
政治家が継続的な行政を行なうために必要な手段として
①人的な行政スタッフ
②物的な行政手段
この2点を挙げます。現在の政治家の姿もまったくこのとおりですね。現在の日本においてはこの2点を揃えるための原資として政党助成金などの形態で税金を投入することも行なっています。

■国家秩序の分類

次にウェーバーは、政治を行う舞台である「国家」について論じます。
国家は成立の過程から
①人的行政スタッフが行政手段を自分で所有する形態(身分制的に編成された団体)
②行政スタッフが行政手段から切り離されている形態(君主の直轄支配)
この2つに分類します。
現在でもドイツのような連邦制国家は①であり、日本などは②の形態と言えるでしょう。
この②の形態は「官僚制的国家秩序」に変化し、近代国家の発展と共に広まっていったと見ることができます。

国家の実務を掌握する官僚は、君主と比類する他の私的な担い手に対する収奪が用意されるにつれてその権力の範疇は広がりかつ活発化していきます。
ここで用いられている「私的な担い手」とは、行政手段、戦争遂行手段、財政運営手段その他の政治的に利用できるあらゆる種類の物材を、自分の権利として所有している者と指しており、それぞれに独立している国家君主とみてよいと思います。すなわち、国家として行使できる権力を、他者から独立した形で所有するのが国家そのものであると言い換えてよいでしょう。

そうした官僚国家の発展は、資本制経営が発展してくる過程と完全に併行しており、政治運営の全手段を動かす力は事実上単一の頂点に集まる。つまり一人の国家指導者に権力が」集中するという指摘です。
そうした官僚国家においては、行政スタッフと物的行政手段の分離が完全に貫かれている。現在の国家体制は原則においてその通りの姿になっているのではないかと思います。

■新しい発展型国家と第二の「職業政治家」

そしてこの講演が行われた直前の1918年ドイツ革命を、国家という収奪者から政治手段と政治権力を収奪しようという動きであったと定義し、簒奪や選挙で政治上の人的スタッフと物的装置に対する支配権を入手した根拠を被治者の意思に求めたと位置付けます。
このことを通して、近代国家とは、ある領域内で支配手段としての正当な物理的暴力行使の独占に成功したアンシュタイト的な支配団体であると定義します。
そして、その独占の目的達成のために物的運営手段は国家の指導者の手に集められ、その頂点に国家が位置すると見ました。

そうした新しい形の国家においては、政治支配者に奉仕する、第二の意味での「職業政治家」が現れます。

その政治家は、君主の政策を行うことで物質的な生計を立て精神的な内実を得ます。
君主の最も重要な権力機関であり、政治的収奪の機関となっていきます。

■職業政治家の存在の意味

政治家には大きく3つの分類があるとして
①臨時の政治家
②副業的な政治家
③本職の政治家
を挙げます。
①臨時の政治家とは、現代でいえば選挙活動や自治活動に取り組む一般庶民のことであって、いわゆる政治家とは一線を画します。
②の類型は、現代においては財界活動や地域の自治会で役職について活動している方達がこれに相当するでしょう。多くの場合は無報酬もしくはわずかな謝礼程度です。
③本職の政治家が、現代における政治家に相当すると考えてよいと思います。
本職であるので報酬も受け取ります。
国民生活が多様化していくにつれて、国家君主も、自由な政治団体である国家そのものも、本職の職業政治家を必要としていきます。
ここでいう自由とは、伝統的な君主権力支配を受けていない国家体制であることを指していて、暴力的な支配を伴わないということではありません。ざっくり言えば前者は王政国家であり、後者は国民主権国家などがその一例です。

■政治のために生きるのか、政治によって生きるのか

政治を職業とする「本職の職業政治家」は
①“政治のために生きる”人達と、
②政治によって恒常的な収入を得ている“政治によって生きる”人達に
分類される。
この違いは天地雲泥ほどの大きな差があるわけだが、現実にはこの2者をいとも簡単に行ったり来りもしてしまう。

ウェーバーは対比する類型制度として論じているが、この点については少し違和感がある。
ウェーバーは、国家や政党の指導が「政治のために生きる」人達によって行われれば、人的補充は金権的になると指摘。つまり人事権が政治家の特権のひとつとなり、恣意的政治になる危険と賄賂が横行する温床になる。それを防ぐためには金権的でない方法で政治的スタッフや官僚が任命されることが必要であり、そのためには権力を握る政治家の意向に関わらず、政治の仕事に携わる人達が定期的かつ確実な収入が得られることが必要となると指摘している。

つまりこの論点からさらに論を進めれば、「政治のために生きるのか、政治によって生きるのか」という二者択一の問題ではなく、「政治によって収入を得ながら、政治のために生きる」職業政治家が求められていると考えるのが適切ではないかと思うのである。

■職業政治家による政治形態

このあと、職業政治家を輩出する土壌、機関の有無を考察したのち、官僚と政治家、マシーン(政治指導者のために機能する政党組織)を伴う一人の政治家を中核とする政治形態と、カリスマ性を有する指導者個人に依存しない派閥政治等の集団としての政治について、論点が提示されていきます。
その一つの結論として、直接選挙による指導者の選出(大統領制)か、議会による指導者選出なのか、その選出方法にも言及しており、現在の選挙と政治体制の在り方を考えさせられる論点が提示されています。

■指導者としての政治家に求められる資質と政治倫理

ウェーバーは求められる政治家の資質として
①情熱
②責任感
③判断力
の3点を挙げ、この3点のバランスが重要であると論じます。いかに情熱があっても事物に対して距離を置いて見ることができない政治家は大罪を犯していると断言します。

そして、政治行為の最終結果は往々にして当初の意図と大きく食い違い、正反対の結果になる現実を指摘。さらに、政治家が求める「あるべき姿」がどうあるべきは信仰の問題であると断じます。

■最後のテーマ-仕事としての政治のエートス-

ここからウェーバーは、いよいよ本講演の核心である「政治と倫理」のテーマに踏み込んでいきます。
ウェーバーは端的に「政治が人間の倫理的生活の中でどのように使命を果たすのか」という視点で論じていきます。現代に生きる私達にとっても大いに関心がそそられるテーマです。

■真の道義的行動は「倫理」でなく「品位」によって可能

ウェーバーは一例として恋愛での例を挙げながら、戦争後のそれぞれの立場において自己弁護や正当化のためにしばしば「倫理」が独善の手段として用いられてきた事実を指摘。真の道義的行動は、倫理ではなく品位によって可能となると述べています。
さらに山上の垂訓に象徴されるキリスト教的倫理観が現実社会では何ら行動規範とならないばかりか、現実には正反対の行動をとることが多くの人達から求められていると論じます。山上の垂訓の通りに行動するならば、戦争を仕掛けられ領土を焼かれたとしても、抵抗は許されず、かつまだ侵犯されていない残りの領土を自ら差し出すことになってしまう。国家と国民の守るべき政治家に、そうした行動は当然ながら許されるはずはありません。

■心情倫理と責任倫理

さらに倫理的行動は、相反する2つの要素がある。キリスト者は正しき行動を行ない結果は神にゆだねるという「心情倫理」と、予測しうる結果には責任を負うべきであるという「責任倫理」によって構成されているという矛盾である。

加えて倫理を行動規範とすれば、善き目的を徹底して達成するためには危険な手段も用いることになる。またそれがどこまで正当化されるのかの基準も不明瞭である。事実、歴史の中で多くの逸脱した事例をみつけることができてしまう。
悪からは悪が生まれ、善は善からのみ生まれるという非現実的な教説がまことしやかに流布される。

■政治は暴力に潜む悪魔との戦い

こうした矛盾が宗教発展の原動力であったとウェーバーは論じている。
様々な宗教倫理が「人間は生活秩序の中に位置づけられている」と論じていることを、ギリシア神教、ヒンドゥ教、カトリック、プロテスタンティズムを挙げて論じ、その思考過程において「正当な暴力行使」を位置づけてきた経緯を推論している。
したがってどのような理由によって政治闘争を行なったとしても、政治権力を行使できる立場になれば人間は旧態依然たる日常生活を台頭させ、信仰そのものは消滅するか政治的俗物の一部と化すと断言しています。

政治を行う者は、この倫理的パラドックスと自分自身がどうなるかという点についての責任を片時も忘れてはならない。政治家は全ての暴力の中に姿を潜めている悪魔の力と手を結ぶのである、と。

ここで「暴力」について少し触れておきたいと思います。
ウェーバーが言う暴力とは、物理的に人間を傷つける行為のみを指す狭義ではなく、何らかの力で他者の行動や思考を制限する行為や威力そのものを指していると思われます。政治はその国家や団体に属する人々に対して何らかの影響を及ぼす行為であるがゆえに、必然的に暴力をその基盤に有しているとみるべきであると考えられるでしょう。


その意味で資本主義国家や封建国家にとどまらず、「社会主義の未来」や「国際平和」においても同様の問題が出現する。

■政治とは生の現実に打つ勝つこと

この問題と対峙するためには年齢等は役に立たず、修練によって生の現実を直視する目を持つこと、生の現実に耐え、内面的に打ち勝つ能力を持つことが絶対条件となる。
ウェーバーは責任倫理に重きを置きつつ、心情倫理と責任倫理が相俟って「政治への天職」を持ちうる真の人間を生み出すと結論づけている。

そしてウェーバーは、聴講する学生達に「10年後にもう一度話し合おう」と語りかけている。今自分自身が心情倫理家と感じ革命に陶酔している人々がどうなっているか。諸君一人一人はその時どうなっているのか。
・憤懣やる方ない状態にあるか
・俗物になり下がってぼんやりと渡世をおくっているか
・現世逃避にふけっているか
いずれにしろ自分自身の行為に値しなかった、この世にも日常生活にも耐えられなかったのだ、と。

ウェーバーは、一方で自己弁護的な敗戦戦犯探しに警鐘を鳴らしつつ、もう一方で「自分達は神の子であり敗戦は偽りの姿である」「自分達は神の御心のまま行動したのであるから結果も神にゆだねる」との心情的革命家と化している同僚や教え子達に真の政治家のあり方を情熱的かつ論理的に語り抜いたのである。

■いかようにして生の現実に打ち勝つのか

あえて、この講演全体を通じて消化不良と言える点を2つ挙げておきたいと思います。
ひとつは、全体を通じて分析主張する論拠が示されていない個所が多いこと。
もうひとつは、ウェーバーが結論づけた政治家像を実現するためにはどうすればよいかという具体的方途が示されていないことです。

一つ目については時間の限られた講演でだったとも思われますし、政治の様々な側面を論じていることを考慮すれば、至極当然かなとも思います。
重要なのは二点目です。
平坦な言い方をすれば、政治が本源的に持っている権力の魔性をいかに克服して、情熱・責任感・判断力の資質をいかにして磨くかということになります。
その本質は「権力の魔性に勝つこと」にあるとして、その実現のためには「修練によって生の現実を直視する目を持つこと、生の現実に耐え、内面的に打ち勝つ能力を持つことが絶対条件」という点までは言及しています。

■政治家に必要な修練とは生命レベルの闘争を続けること

ではその「修練」とはどのようなことなのか?
このための方途をウェーバーが全く触れていないかと言えば、必ずしもそうではありません。少し違う角度で、達成しがたいこの点が宗教的発展を促してきたという指摘があります。しかしウェーバーの指摘はここまでで、宗教の限界も指摘する文脈になっています。

今一度の確認になりますが、政治権力の現れ方として、ひとつには他の目的を実現する手段として、もうひとつは自分の優越感を満足させるために、現出します。
一点目を克服するためには、目的の手段化を防ぐ理念哲学と歯止めをかけるルールづくりが必須であると感じます。
そしてより深刻で本源的な問題が二点目。
これを克服することは、すなわち己心の低い生命状態を克服することと同義。いいかえれば自分自身の生命変革であり、境涯革命の勝利が必要であると言えるのではないかと感じます。
生命レベルでの鍛錬こそが政治家の必須要件である。
このように結論づけることが重要ではないかと思います。

翻ってみて現代。
真の政治哲学や理念思想を持ち実践する政治家はどこにいるのか。
生命レベルでの闘争を続ける政治家は誰なのか。
そうした視点で政治家を選出することが、有権者である私達に課せられている重要課題であると思います。

■真の政治家の姿とは

最後にウェーバーを訴えた真の政治家像を、本文をそのまま引用して紹介したいと思います。

政治とは情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくりぬく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようであれば、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。
これをなしうる人は指導者でなければならない。
指導者であるばかりではなく、英雄でなければならない。
そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志で、いますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま可能なことの貫徹もできないであろう。
自分が世間に対して捧げようとするもの比べて、現実の世の中がどんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。
どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。
そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。

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第95回桂冠塾 ゲーテ作『ヴィルヘルムマイスターの修行時代』 ※前半
2013-05-09 Thu 23:36
3月30日(土)に今月の桂冠塾を開催しました。3月と4月の2回でゲーテ作『ヴィルヘルムマイスターの修行時代』を取り上げました。
まずはじめに作品のあらすじを確認しておきたいと思います。

■全体構成と物語のあらすじ

この作品は全8巻で構成されています。岩波文庫版は3分冊になっている長編小説です。全体の構成をあえて分類すると

1~5巻:演劇で生きていくことをめざすヴィルヘルム・マイスターの人生の軌跡
6巻:うるわしき魂の告白
7~8巻:子供と共に-キリスト教を基調とした秘密結社の行動を行う一族と出会い、愛と人生を考えるヴィルヘルム・マイスター

という感じになるでしょうか。少し長くなりますが作品の理解に必要ですので、あらすじをまとめてみます。

Ⅰ.第1~5巻 演劇に生きようとするヴィルヘルム・マイスター

裕福な商家に生まれ、家業を継ぐよう望まれていたヴィルヘルム・マイスターは、父の期待に反して、幼少の頃から演劇にあこがれ、長ずるに及んで、いつの日かドイツ演劇界の改革者になりたいと志すようになっていきます。

彼は、青春の情熱のおもむくままに、女優マリアーネに夢中になり、一緒に暮らしたいと願うが、父の反対は目に見えていました。折りから、見聞を広めるために修業旅行せよとの父の意向があったが、かねての希望を達成すべき機会に利用しようと考えたヴィルヘルムは、ひとまず自分だけが先に旅立って、どこかの劇団で地位を得てから、マリアーネを呼び寄せようと計画する。しかし実行の前夜、彼女から冷たくあしらわれて悲しんだ彼は、愛のかたみにと思って、彼女のマフラーを持ち帰るが、思いきれずふたたび未練の情に駆られて引き返したとき、彼女の家から男が出てくるのを見てしまう。彼女にパトロンがいたのではないかとの疑念を抱き、衝撃を受けて帰宅した彼は、マフラーの中から、その夜来訪する旨が書かれたパトロンの手紙を発見する。動かぬ証拠を手にした彼の苦悩は極限に達し、重い病にたおれる。

やがて回復した彼は、過去の情熱につながる一切を払拭しようと努め、黙々と家業に精励する。 しかし、初心はついに忘却しがたく、彼は旅に出る。

ヴィルヘルムは仕事で滞在していたある町で、駆け落ちに失敗した俳優メリーナと女のカップルに出会いその窮地を救う。
さらに別の町で女優フィリーネ達と出会い、愉快な休暇を楽しむが、その時サーカスの団長から虐待されていた少女ミニヨンを身請けする。
さらに彼は、不思議な竪琴引きの老人と知り合ったが、この老人とミニヨンの孤独な魂は、騒々しく浮ついた貴族や芸人の社会を遍歴するヴィルヘルムにとって、こよない慰めとなった。

快楽的な生活のうちにもヴィルヘルムの胸中を時として懐郷の思いが去来する。そんな折り、その町に現れたメリーナ夫妻の要望に応えて、金銭を用立ててメリーナ一座が立ち上がる。
折よく、ある伯爵一行に上演できる機会に恵まれる。
その伯爵を讃える前狂言をヴィルヘルムが企画し好評を博する。その間にヴィルヘルムはシェークスピア作品に出会って感銘を受け、一方でヴィルヘルムと伯爵夫人の間には愛が芽生える。同行していた男爵夫人の悪戯によって伯爵に露見しようになるが亡霊を装ってその場を逃れる。それによって伯爵は霊魂を恐れるようになるが、ヴィルヘルムと伯爵夫人はお互いにその思いを埋めて別れを迎える。

伯爵一行が移動し演劇公演も終了。メリーナ一座は合議制になり、旅をつづける途中で盗賊の噂に出くわすがヴィルヘルムの主張で旅を続けるが、襲われて金品を略奪される。
防戦したヴィルヘルムは重傷を負って失神する。意識を回復したときは、フィリーネの腕に抱かれていた。他に残っている者はミニヨンだけで、全ての団員は逃げ去ってしまった。途方に暮れるヴィルヘルム達に旅の一隊の旅行者が近づき、白馬から下り立った気高い貴婦人(騎士)がヴィルヘルムを介抱してくれる。

隣村にたどりついたヴィルヘルムは、一座の者たちと再会する。団員たちは彼を責め、めいめいの損害を彼に弁償させる。
ヴィルヘルムは自分を救ってくれた女騎士を思い、八方手を尽くして彼女を捜すが見つからない。
程なく一座の団員は、ヴィルヘルムの紹介で劇団座長をつとめているゼルローのもとに身を寄せる。ヴィルヘルムは座長の妹アウレーリエと知り合い、親しくなる。アウレーリエには3歳の男児フェリックスがたえずまつわりついているが、彼女はかつて貴族と関係して捨てられたことがあり、その子はその彼との実子だと思われている。
彼女は過去の恋をヴィルヘルムに語り、不実な貴族で恋人ロターリオに手紙を渡してほしいと言い残して病死する。

Ⅱ. 第6巻:うるわしき魂の告白

上流階級に生まれた一人の女性の告白手記で第6巻が構成されている。
女性の本名は明かされていない(以下「彼女」と記載する)。彼女は学問を学ぶ意欲に満ち、成長の過程で神への信仰を確立した女性として心情が吐露されている。

彼女は8歳の時に喀血し9ケ月間闘病生活を送り、その間に学ぶことの楽しさを知る。
当時の社会では女性が学ぶことを好しとしていなかったが、彼女は回復後も勉学や語学に励むと共にキリスト教の信仰と聖書に親しむようになる。
12歳の時に侍従長の2人の兄弟と親しくなり、兄と交際するが、兄弟は相次いで死亡する。
その後社交界デビューした彼女は、無為に思える日々を貴族の勤めと思って過ごし、彼女がナルシスと渾名した青年と交際する。罰金遊びから誤解を受けたナルチスは、大尉との決闘で大怪我を負う。ナルチスは看病した彼女に求婚し婚約者となる。しかし神との関係において一定の悟りの境地に達していた彼女は、通俗的な生活を送ってきたナルシスを精神的に受け入れることができず、快楽的なナルチスの行為を非難します。

第6巻の後半は彼女の信仰観が述べられます。

多くの若い人が感じる社交的な楽しみや娯楽に対して魅力は感じることはあっても、迷うことは決してなかった彼女。
善を選ぶことに何の迷いもなかった。
自分の幸福に関わることは自分で決めることができ、自分を混乱させる行為は受け入れないでいることができる。
彼女の中でそうした思いはナルチスへの愛を阻害するものではなかったが、ナルチスは疎遠になっていく。ナルチスに手紙を出して愛情を確認しようとする彼女。彼女を幸せにできるだけの地位に就ければ関係を進めたいと言うナルチスの手紙には、彼女が貴族の妻にふさわしい考えに改めるという条件が付いていた。数ヵ月後二人の関係は終焉します。

彼女の存在は、婚約者よりも神を大切に思う娘として知れ渡るようになります。
ある伯爵家との付き合いも濃くなり、数軒の親戚が移られて交際が広がり、彼女宅には叔父が滞在すようになる。叔父が結婚を希望する妹と共に、叔父の友人宅に滞在し社交界の務めを行うが、不摂生な生活に2度目の喀血を起こす。彼女は生きる希望を捨てた生活を送る。

母が重病になり、父も体調を崩し、彼女は自身の生き方を吟味する。
神の存在を確信し、神と交わることを得た彼女は、苦難に襲われると精神的な避難所(具体的な場所ではなく心の中にある)に急ぎ、報われて現実の意識に帰ってくるという精神世界を得る。
彼女の中において、神なくしてはこの世は存在しないことが証明されたのだった。

彼女にはキリスト教の様々な宗派は無関係だった。
ハレの改心派に帰依するが、改心は罪を深く恐れることから始まるという教義は、彼女には全く当てはまらず、彼女にとって神は求めるとすぐに姿を現した。地獄の責苦や悪霊など彼女には無縁だった。その間食養生的療法も続けた。

フィーロ一家が近くに転居してくる。とても気持ちの良い友人となり、フィーロから愛の告白を受けた(と文脈から推察される)。自身の中にある官能的感情に戸惑い、神に祈った彼女は、それまでの感情を乗り越えて真の信仰を見出す。彼女は心に翼が生えたと表現した。教会神父の説教も陳腐であることも悟る。その真情をフィーロにも伝えた。

フィーロ一家は異端者と思われているヘルンフート同胞教会と関係があり、創始者であるツィンツェンドルフ伯爵の著書を多く持っていた。著書を読んだ彼女はそこに自分が求めていた信仰があることを悟り、伯爵を信奉するようになる。彼女らの転回は表沙汰になり、宮廷牧師は失意の中で死亡する。

妹は叔父と結婚した。結婚式が行われた叔父の館での行き届いた配慮に感銘する彼女。「人間は神性の概念と少しも矛盾するところはない」「真剣にやらないでできるものは何一つない」等の叔父の考えに触れ共感する。芸術に対しての考えを開陳される。
叔父の書庫を見て全体を見渡すことの大切さを知る。大変興味のある医者で博物学者に出会う。

多くの招待客が去った叔父の館で天上の至福ともいうべき合唱を聞き、叔父から七宝焼の十字記章をいただく。
まだ嫁いでいないもう一人の妹が肺炎で死亡する。結婚した妹はショックで早産するがその後男の子を出産。父は熱病で死亡する。
ヘルンフート同胞教会の人々との交流を願い、施設を訪れた彼女だが、思いと違う現実に失望する。前出の医者に助けられて生きる彼女。妹は女子、男子を出産するが夫である叔父は急逝する。
彼女は妹の上の娘に夢中になる。上の娘は尊い行為によって施しを行う少女だった。
周囲からは自身の信仰が理解されない彼女であったが、そのことで信仰が後戻りすることはなかった。彼女自身の心の命じるままに正しい道を歩んだ。
彼女は、自分自身の力や能力を誇る危険に陥る危険は決してない、と断言して手記は終わります。

Ⅲ.第7・8巻 子供と共に・信仰をもとに愛と人生を考えるヴィルヘルム

話の流れは第5巻の終りから続き、ヴィルヘルムは亡きアウレーリエの手紙を携えてロターリオ男爵を訪ねる。激しく非難しようと勢い込んで乗り込むが、ロターリオの人柄と何か事情がある様子に触れて肩透かしにあう。
ヴィルヘルムは神父にアウレーリエの話をし、さらにローリエが親しくしている娘リューリエが原因となった決闘でロターリオが負傷。帰宅する脇にはヤルノがいた。
手当てをする若い医者が持つ鞄はかつてヴィルヘルムが盗賊に襲われた時に治療をしてくれた老医師のものだったが、若い医師は誰のものだったか知らないという。さらにヴィルヘルムは、取り乱すリューリエの付き添いを任されて家族の一員のようになる。

かつてアメリカに渡っていたロターリオは領地内の改革をめざしていた。同胞教会に入ろうとしているロターリオの義弟の伯爵は、かつてヴィルヘルムが恋した伯爵夫人の夫であることを知る。
ロターリオの治療のために老医師が到着する。かつてヴィルヘルムを治療した医者だった。第6章の手記もこの老医師が読ませてくれたことも明らかになる。

竪琴引きの老人のその後を語る老医師。竪琴引きは自分の内面にしか目を向けていない、空虚な暗闇しか見ていない、そして自分は男の子に殺されると思っているという。
リューリエは療養のためにロターリオの女友達テレーゼ邸に預けられることになり、ヴィルヘルムが同行する。ヴィルヘルムはテレーゼがあの女騎士ではと思ったが違っていた。
ロターリオへの尊敬と感謝の念をテレーゼに語るヴィルヘルム。ヴィルヘルムと同じ心だというテレーゼ。テレーゼは家政を管理経営する現在に至った経緯を話す。放漫な母の生き様と確執、そして母の出奔、愛する父の死とその後の困窮...そうした経緯を経て家政経済の資質を磨いていったテレーゼは、ロターリオと出会い、互いを認め合い婚約し結婚の日が近づく。しかしロターリオが旅行先で、テレーゼの母と関係を持っていた事実が判明し、破局した過去を語った。

ヴィルヘルムは館に戻り、ロターリオの怪我も回復に向かう。農家の娘、更にアウレーリエとの恋愛を語るロターリオ。ロターリオとの子供だと思っていた男の子は老婆が連れてきたことが判明。アウレーリエは別れの悲しみを紛らわすために手元に置いていたのだという。
ヴィルヘルムは男の子フェーリクスとミニヨンを引き取るために元の町に向かう。

フェーリクスとミニヨンを抱きしめるヴィルヘルム。傍にいる老婆がかつてマリアーネに付き添っていたバルバラ老婆であることに気づく。詰問するヴィルヘルムに老婆はマリアーネが死んだこと、フェーリクスはヴィルヘルムの子供であると告げる。マリアーネはヴィルヘルムに何通も手紙を書いていた。
一方、劇団はヴィルヘルムがいなくても順調だった。
老婆はマリアーネの来し方をヴィルヘルムに語る。マリアーネにパトロンとしてノルベルクを選ぶように仕向けたこと、別れの夜の顛末、マリアーネがヴィルヘルムを選ぼうとしていたこと等々。マリアーネが書いた手紙は、ヴィルヘルムの家族に受け取ってもらえずヴィルヘルムが贈った紙入れに残っていた。老婆はフェーリクスの養育費を理由にノルベルクからお金を引き出して老婆自身の生活に使い、実際の養育費はアウレーリエが出していた。
2人の子供をテレーゼの元に旅立たせるヴィルヘルム。劇団とも別れを告げる。

ヴィルヘルムが領地に戻ると、大叔父が亡くなりロターリオが遺産を相続することになっていた。ロターリオは既に出掛けていた。大叔父の遺産を元手に土地を購入する計画を実行に移すことになり、神父、テレーゼと共にその仕事に就くヴィルヘルム。実務はある商会に託すことになった。
数日後ヴィルヘルムはヤルノから自分達の秘密を明かすと告げられ、立入が禁じられていた古い塔に案内された。元は礼拝堂であったと思われる部屋に入ると、そこには大きな机と多数の巻物が収められた戸棚があった。
かつて祖父の美術コレクションの買取を仲介した人物、一緒に舟遊びに興じた田舎教師、かつて伯爵邸でヴィルヘルムを介抱した士官、甲冑に身を固めたデンマーク老王にふんした男-かつて演劇公演で助けてくれた存在自体が謎の人物-...。
ヴィルヘルムが出会った人物が次々に現れた。
混乱するヴィルヘルムの前に神父が小さな巻物を置いて言った。
「これがあなたの修業証明です」

修業証明を読むようにヴィルヘルムに促し、書棚の巻物を見るように告げる神父。そこには「○○の修業時代」と様々な人の名前が書かれた巻物があった。
駆けてくるフェーリクスを抱きしめ「おまえは僕の子だ」と叫ぶヴィルヘルムに神父は告げる。
「おめでとう」「あなたの修業時代は終わったのです」

※ここからが最終の第8章になります。

ロターリオが大叔父の土地を共同で購入する商会はヴェルナーの商会だった。二人は再会した。
フェーリクスの教育に思いを致すヴィルヘルムは、テレーゼへの求婚を決意し手紙を送る。戻ってきたロターリオは、土地が購入できたことを喜びつつ、国家への納税の必要性を説く。
ミニオンの容態が悪化したとの連絡が入り、ヴィルヘルムはフェーリクスを連れて、預けているロターリオの妹宅に向かう。来るべき伯爵夫人との再会に慄くヴィルヘルム。しかし途中で受け取った妹からの手紙の内容と筆跡から、ロターリオには2人の妹がいること、ミニオンを預かっているのはもう一人の妹、女騎士であることを悟る。

到着した妹邸で、祖父の美術品を目にするヴィルヘルム。ついに憧れの女性である女騎士ナターリエと再会する。ナターリエはミニヨンの病状とミニヨンが女の服装を身につけるようになった経緯を語る。
様々な事情の符合から、あの告白手記はナターリエの伯母であること、心清らかな少女がナターリエ本人であること、登場する人物がロターリオの一族の人達であることを知る。
ナターリエは一族の人達の考えとして、達観した者が後に続く者達を教育し導いていくことが必要との思想を開陳する。
また末の弟フリードリヒがこうした教育的事件の犠牲者かもしれないとも語る。

医師は、ミニヨンの生命をつなぎとめているのはヴィルヘルムへの憧れであると告げ、ミニヨンの告白を語る。
再会したミニヨンはフェーリクスを抱きしめる。少女達を教え導いているナターリエの清らかな生き方を尊敬し感謝する。ヴィルヘルムと過ごすミニヨンは目に見えて健康を取り戻した。
ヴィルヘルムはナターリエからまもなく妹の伯爵夫人が訪ねてくることを聞く。伯爵は同胞教会に指導者となるべく夫人と連れてアメリカに渡ろうとしている。

テレーゼからの結婚を承諾する手紙がナターリエの手を経て届けられた。ナターリエへの愛を再認識したヴィルヘルムは愕然とし思い悩む。
そんな時ヤルノが到着する。彼はロターリオとテレーゼとの結婚に障害がなくなったことを告げる。テレーゼとその母は実の親子ではなかったのだ。ヤレノはロターリオに状況を伝えるために去る。
この情報をヴィルヘルムと破局させようとの暗躍だと思いこむテレーゼは、この事実を信じない。到着した彼女はヴィルヘルムに抱きつく。その情景を見たミニオンはショックで急逝する。
医師はミニヨンの遺体を美しく保存する処置を施すことを告げる。

ヤルノは結社の活動を説明する。ヴィルヘルムは踊らされていたかのような屈辱感を味わい、反発する。
飛脚が到着し、とある伯爵が到着するという。その人物は弟フリードリヒであり、劇団時代に出会っていたフリードリヒだった。神父はテレーゼの母の来し方を語り、実の母ではない経緯を伝える。
ヤルノはある計画を実行するためにアメリカに渡ることを話し、ヴィルヘルムを誘った。その計画とは、各国に塔の結社の支社を創設し、革命などで失う危険がある個人財産を互いに保証しあうというものだった。
一方で神父は、大叔父の友人の侯爵がドイツ国内を旅行する際の通訳としてヴィルヘルムを推薦したいという。
ヴィルヘルムはこれらの提案を自分を追い払おうとする画策であると感じて立腹する。ナターリエといると心がなごむヴィルヘルム。幾多の恋をした彼であるがナターリエを愛していることを認めざるを得なかった。
侯爵が到着する。語り合われる芸術論を通して人との接し方の考えも展開される。

ミニヨンの埋葬ミサが始まる。
合唱隊が歌い、ミニヨンの美しく清められた遺体が現れる。遺体の右腕に刻まれた十字架上のキリスト像を見た伯爵は、ミニヨンが自分の姪であることを知る。

侯爵はヴィルヘルムに、ミニヨンの祖国を訪ねることを提案する。重ねてドイツ旅行の同行をお願いする。
その夜、伯爵夫人が到着する。互いに恋心を抱いていた二人の心は震える。
神父はある人物の告白を読み始める。
彼は3人兄弟で、兄は一族の惣領として、自分は軍人として、弟は僧職としてそれぞれの道を歩んでいた。しかし弟アウグスティーンは僧侶であるにかかわらず女性スペラータを愛してしまう。スペラータは両親の事情によって里子に出された実の妹だった。大人達はアウグスティーンに真実を告げて別れるように説得するが、弟は受け入れようとしない。スペラータは既に妊娠していた。二人は駆け落ちをするが連れ戻され、引き離されてスペラータは子供を出産する。
彼女を預かった神父は近親相姦の事実を告げず、それに匹敵する感情として聖職者に身を任せた行為を深き罪として、恐ろしい魂の苦悩を課した。スペラータは精神的に不安定になっていく。
子供は母と引き離されて湖畔に住む夫婦に預けられ活発に木に登ったりしていたが、あるとき子供は帰ってこず池に帽子が浮かんでいた。子供の遺体は見つからなかった。

様々な昔からの言い伝えが語られるようになり、スペラータは池に打ち上げられる骨を我が子と思いこんで拾い続け、次第に衰弱していく。骨が集まった頃、子供が生き返ったと感じたスペラータは天上への希望でいっぱいとなり、精神は肉体から解放され恍惚の中で死んでいく。彼女の遺体は腐敗することなく聖者のごとく敬われた。
アウグスティーンは彼女の奇蹟の話を聞き、僧院を脱走してスペラータの遺体に会いに行く。そしてアウグスティーンは行方知れずになった。

神父はアウグスティーンと竪琴引きは同一人物であるという。そして侯爵の次のような希望を伝える。
ヴィルヘルムとフェーリクスに旅行に同行してもらい、帰路でイタリアに来ていただき兄に会っていただきたい。兄はこの告白をした人物と友人であり、スペラータが受けた財産を預かっている。その財産を姪ミニヨンの恩人であるヴィルヘルムに受け取ってほしいと言う。
ヴィルヘルムは出発を決意し用意を整える。
そこに医者に連れられた未知の男が入ってくる。風貌は全く変わっていたが彼は竪琴引きの老人だった。人生に絶望した彼を立ち直らせたのは、いつでも死ねると思わせた阿片液の瓶だった。男の子に殺されるという妄想は克服できていなかったが。

そんな折り重大な事件が起こった。
フェーリクスが誤って阿片液を飲んでしまったのだ。解毒をさせようと手を尽くす大人達。責任を感じたアウグスティーンは喉を剃刀で切って自殺を図った。いったんは一命を取り留めるが、その夜に自ら生命を絶った。
フェーリクスは間一髪で阿片液を飲んでおらず助かることができた。フェーリクスを介抱する中で、ナターリエはヴィルヘルムとの結婚を心密かに決意する。

事件の影響で出発が延期になり熱病にうなされるような動揺した空気が流れる。ロターリオはヴィルヘルムに、自分達-ロターリオとテレーゼ-の結婚と同時に、ヴィルヘルムとナターリエが結婚式を行うことを提案する。
皆に祝福されて二組の男女は結婚することに。
最後にヴィルヘルムはこう言って物語は幕を閉じる。

「王国の価値は知りませんが、僕が身に余る、この世の何物にも替えたくない幸運を手に入れたことはよくわかっています」

ざっくりあらすじを紹介しました。
それでもかなり長い文章になりましたので、内容についての所感等は次回に記述したいと思います。
※本文の引用は岩波文庫版・山崎章甫氏訳を出典としています。

《当日の開催要領などはこちら》
http://www.prosecute.jp/keikan/095.htm
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受験を中止? 桜宮高校問題への橋下市長の対応に苦言を呈す
2013-01-17 Thu 09:18
橋下市長がまた判断を間違えている。
入試を目前にした大阪市立桜宮高校における体育科とスポーツ健康科学科のあわせて70名の入試中止を口にした。
バスケットボール部で行われてきた体罰と自殺者を出したことに対する改善策の一つとして記者会見で橋下市長が発表したのだ。

一人の人間が自ら生命を断つという状況に追い込んでいった教育の現場を根本的に改革するのだという意気込みは不可欠だ。しかし、だからといってそのツケをこれから自らの進路を切り開こうとしている、現中学3年生の受験希望者に負担させる必要がどこにあるのだろうか?

考え違いをしている。

責任を負担し改革すべきは、教育をする側にある。
教育を受ける側に責任があるわけではないのだ。
しかも、願書提出締め切りまで1ケ月を切ったこの時期の発表。
「教育の現場がわかっていないのは橋下さんあなたもですよ」とか言いようがない暴挙である。

新入学生を受け入れないことが事件への禊ぎになるのか?
空白の一年間を作ることに何の意味があるのか?
その高校での部活を夢見て頑張ってきた中学生の思いはどこに持っていけばよいのか?
「体育系志望者は普通科へ」なんて何と非現実的な発言なのか...
受験生の思いも、受験勉強の実態も、子供たちの将来の進路も、何も我がこととして感じていないではないかと思わざるを得ない。
橋下氏に本当に改革しようとの決意があるのであれば、どんなに苦しい状況下であっても、希望する受験生がいる限り、子供たちの立場に立って物事を熟慮すべきだ。すぐに改革に着手し4月の新入生受入れまでにできる限りの体制を回復させる。そのうえで希望する生徒を受け入れ続けて、苦しい状況の連続の中で改革を進めるべきだ。
いったんすべてを止めて改革をする、なんでいうのは聞こえはいいが、偽善であると断言したい。

希望していた受験生がこの高校を選ぶかどうか。
それは受験する本人が決めることである。

そもそも今回の問題はどこにあるのか。
桜宮高校の問題なのか、それとも体罰という教育現場で続けられてきた暴力問題なのか。
桜宮高校の固有の問題であれば橋下氏の対応もある程度の共感も得られるかもしれない。しかし多くの人が気づいているように、桜宮高校固有の問題ではない。
言いかえれば桜宮高校以外でも、判明していないだけで存在している問題ではないのか。そうであれば桜宮高校の受験を中止しても何ら問題に肉薄することはできないと思うのである。
桜宮高校の体育系教員全員を配置転換せよとの橋下氏の主張も、彼が主張するように桜宮高校の教師自身に問題があるというのであれば、配置転換によって問題を他校に拡散することになる。問題の本質に迫る対処というよりも、感情的な懲罰に近い印象に感じてしまうのはそうした理由にもよる。
長期にわたる勤務が問題であるならば、桜宮高校に限定せず、一定年数以上同じ学校に勤務する教員全員を対象にしなければ筋が通らない。

バスケットボール部の部活停止の方針もあると聞く。
それこそ大人の論理だ。
バスケ部で頑張ってきた生徒達に何の責任があるのか?
生徒達の不祥事ではないのですよと強く訴えたい。
部活停止などにすれば、逆に、どんなに生徒達に迷惑をかけると思っているのか。
キャプテンの自殺で大きな心の痛手を負っているというのに、それに加えてさらに部活ができなくなれば、生徒達は二重三重に被害を受けることになる。

とかく橋下氏の言動は容認されることが、ままある。
他の人が同じ発言してもバッシングされることであっても、橋下氏が言うと支持される傾向がある。
今回も問題でも「橋下氏が断固たる行動を取ろうとすることで多くの人がこの問題に注目している」「通り過ぎてしまう危険を阻止している」という声も多い。
この点については否定するものではない。
過去に何度かこのブログでも指摘しているように、一方の極論をぶち上げることで議論を活性化し、世論を集め、最終的にはその世論を踏まえて妥当なとことで落ち着かせるというのは、橋下氏の手法でもある。

http://prosecute.way-nifty.com/blog/2012/11/post-02b8.html 
橋下氏独特の世論形成のためのパフォーマンス手法だとは、思う。難しい議論となる一方の極論をぶち上げておいて、比較的多数派となる「落とし所」で世論を獲得する。最初から民意と思われる主張をしても「平凡だ」と思われるだけだが、極論をぶち上げたのちに、自ら多くの意見をくみ取ったというステップを踏んだように見せれば、多くの有権者の支持を得ることができる。
弁護士である橋下氏が、法曹の世界を渡り歩く中で、自然と身につけてきた必勝戦術法なのかなとも思う。


ただ今回の問題はそれだけではなく、さらに重要な要素を含んでいるように思われる。

一見すると潔く、英断のように見えることが、その本質に「逃げ」の生命が巣くっていることがある。今回の橋下氏の言動が、まさにそうだ。
橋下氏は自分自身が問題解決に取り組もうという決意が足りないと指摘したい。そんなことはないという声が聞こえてきそうだから、さらに言わせていただくと、その決意とは裏返せば、問題の端緒は自分自身から発しているという責任感ということになると思うからだ。
その認識がないと、どんな強い決意であっても、どこまでいっても他人事に終わってしまうと思うからだ。

代表的な東洋思想のひとつに「本因妙」という考えがある。
様々な森羅万象、自然界的また社会的な現象はそれぞればらばらに起きているように見えるが、その根本は各人自らの生命の動きから発しており、困難な環境であっても自らの決意と行動で変えていくことができるという生命論的思想だ。
混沌とした現代の難しい諸課題を解決する精神的主柱とすべき考えであると、私は常々思っているが、教育を取り巻く環境の改革は、まさにこの姿勢が不可欠ではないだろうか。

教育委員会を指弾するも、いい。
桜宮高校の現場の教師の責任を追及して、配置転換させるのも、市長の権限でできるのであれば、それはそれでいいだろう。
しかし、だ。
そんな現状を抱えている大阪市の最高責任者になったのは、橋下氏、あなた自身だ。
それもみずから、望んで就いた仕事である。
回りの人間や、役職上の責任を云々することの、もっと根本的なこととして、その立場に就いたということの意味をもう少し深く自覚することから出発すべきではないのか。

人間には使命というものがある。
大阪市長になった以上は、大阪市民の生命を守り、幸福を実現するために尽力する使命と責任、そして義務がある。
その根本は、その責任にある者が、すべては自らの行動から端を発すると自覚することから出発するのではないだろうか。
自らの自覚と祈りが届かず、この子供を守り切ることができなかった。
その思いが橋下市長にあれば、必ず解決の道は開かれる。
橋下氏にはその自覚と決意を、市民に表明する責任もあるはずだ。
関係者を指弾する激しい発言よりも、亡くなった一人の人への真摯な追悼の言葉、自らの立場から発せられる心の言葉があってほしい。
今の橋下氏には、それが足りないのではないか。
それがあれば、どんな困難な道程であっても、必ず踏破できる。
各人にあっても等しい哲学理念であると思う。
私は、一人でも多く人がそう信じて進んでいってほしいと念願するものである。
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